バッターボックスに立て One Japanese Student's Diary in London

博士号取得のためロンドンに留学中。日本・東アジアの歴史を研究しています。

2018年3月10日(土)

昼頃起きて下の餐廳で昼食。その後H田先生の論文を読む。
国際私法の論文だが19世紀国際社会について学ぶことが多い。とくに自然法⇢実定法期において、自然法でもなく国家の合意でもないところに国際法の実定性を求めようとしたものとしてstandard of civilization論を考えるところは示唆に富む。

日本の条約改正についても、結局列強の国際競争上の競争で日本の内地開放が重要だったという有益な指摘があり、中国との対比で考えても首肯できる部分があるが、法的な部分が動因でなかったのは当然であって、いわゆるそれを言ってはおしまいというところもあり、それと政治的法的な理屈付けとは別だよねというのがある。世の中皆そういうものであって、そういう意味で私の議論とも矛盾するものではないだろう。

四時以降から中心部に出て、眼鏡のフレームを買おうとするが、オンデーズではレンズとセットでないと受け付けて貰えないらしい。博多ラーメンを食べ戻り、近所の眼鏡屋に再トライすると、フレーム交換を受け付けて貰えた。店員と話すが、日本なまりが分かり辛いけど可愛であると、良いのか悪いのかわからぬことを言われる。

帰宅して、朝四時頃まで研究。H田論文、O谷さんからの抜刷・以前の論文を消化し、夷務始末の読解へ。O谷論文は連盟の事務局内国際政治の様相を余すこと無く描いており、面白いし私の今後の構想のためにもとても参考になった。

ちょうど森友学園財務省が公文書書き換えを認め、政局は大混乱だ。


省庁によるボトムアップの政策決定から民意を受けた政治家のトップダウンの政治主導へ、という図式が90-00年代に標榜されたが、民主党政権から安倍一強に至る過程で、裸の政治主導が透明な行政執行を妨げることが分かってきた

これは政治主導の失敗というよりは、政治主導の時代における政官関係の在り方が整備されていないためであったと思われる。今回のようなケースを無くすには、省庁の側にもトップの恣意に対する一定の抑止力が必要であって、公文書を適切に残し公開するシステムの構築はそれを担保することになる。

英国並に独立した権限を持つ公文書管理の機関を作るのは、この意味でむしろ官僚を守るものであり、彼らにとっても国民にとってもインセンティブがあるものと思う。

 

と某SNSで発言したところ、同期のNが良くわからない部分に食いついてくる。
彼は当事者内部だから必死なのだろう。後輩も別のSNSに良くわからない投稿をしている。彼らにとっては受難かもしれないが、とうに先進国の常識と国民意識から乖離している。もう白旗を掲げるときだろう。