バッターボックスに立て One Japanese Student's Diary in London

博士号取得のためロンドンに留学中。日本・東アジアの歴史を研究しています。

バッターボックスに立て

 学部生の頃に、ある歴史家の先生のゼミに出席したことがある。あの頃の私は、端的に言えば自意識の葛藤に囚われており、その結果他人に対しては怖いもの知らずで、どんな碩学にも自信満々に生煮えの持論をぶつけていた。今となっては本当に恥ずかしいことだが、そんなことをしていているうちになぜか気に入られ、「◯◯君はどう思う?」と、一度のゼミのうちに何度も尋ねられるようになった。

 

 そのゼミは毎回皆で本を一冊読み切り、その感想・批判を1・2枚の紙に書いて各自持参した上で議論する、という形式であった。従って、議論の内容は当然、著者の主張や本の構成、その地域・時代の歴史理解等が主となる。しかし先生は、しばしば議論の文脈を無視して、現代や世界全体に関する質問を学生たちに投げかけた。とくに私に対しては頻繁であった。日本の帝国主義外交がテーマの際に、突然現代日本のエネルギー外交に関する意見を尋ねられたことは良く覚えている。だが当時は、なぜ先生が私に対してそのようなことを求めたのか理解できず、却って軽くあしらわれているのではと不満に思うこともあった。

 

 先生が書かれたある本の中に、その意図するところを見つけたのは、しばらく経ってからである。留学中のため手元にないが、その文中では、歴史的知識を土台とした上で、学生に様々な問題を当事者として考えさせる意識を涵養するために、敢えてそのようなことを尋ねている、という趣旨が書かれていたように記憶している。それを、過去に先生自身が他人から評された言葉を元に、「バッターボックスに立て」との一言に凝縮させていた。

 

 人は突然ホームランバッターやヒットメイカーになれるわけではない。恥を書いたり失敗したりしながらも、逃げずにバッターボックスに立ち続け、自分なりに来た球を打ち返していなければ、なれる者にもなれはしない。一般的な学生に対してはそのような意味であろう。そしてとりわけ、研究者の卵タイプの学生に対しては、研究対象の歴史的時空に逃避してもいかず、絶えず現代・将来への展望の下に過去を問い直さなければならない、ということでもあろう。そう言えば、その先生の先生に当たる歴史家が、「現代的関心を持たない学者は学者ではない」とまで表現していたことを思い出した。

 

 イギリスに来て、もう半年以上経った。その間は、目前のことや研究計画等にてんてこまいで、バッターボックスに立てていなかったように思う。しかし、そもそもは打者として一回り成長するために、遥かこの地に辿り着いたはずである。そろそろネクストバッターズサークルから出る時なのかもしれない。私の打席の記録として、このブログを始める所以である。

 

 と、ここまでなかなか威勢の良いことを述べたが、基本的にはこのブログでは、なぜ日本・東アジア史専攻の研究者の卵である筆者が留学を決意したか、そのためにどのような準備をしたかといった話を振り返りつつ、現在進行系の日常的話題や政治・社会問題について気の赴くままに書くといったものである。従って、筆者の自意識の垂れ流しではなく、これから留学や研究を目指す人々や、現在の若手研究者が考えていることに興味を持つ方々へ向けて、できるだけ率直に明晰に書いていくつもりである。

 

 気楽に読んで、適宜コメント等を頂ければ嬉しいです。