バッターボックスに立て One Japanese Student's Diary in London

博士号取得のためロンドンに留学中。日本・東アジアの歴史を研究しています。

2018年2月7日(水)

朝研究室に行き中国語Skypeレッスン。今日はコーヒー店ではモカを買う。

その後餐廳で咖喱排骨飯。美味。午後は途中で英語Skypeレッスンを含みながら、ずっとLydiaのthe Clash of Empiresを読む。

夜は蔬菜の弁当を食べ、読解を続ける。序盤のポストモダン臭には辟易したが、良くひかれるだけあってとくにWheatonのElement of International Lawの部分はよく調べてあり面白い。ただ国際法の理解については法学者より規範的で、歴史について独善的な評価が目立つ。あと論文でIとかMyとか頻繁に使うアメリカの学者はそんなに好みではない。

深夜まで読み、関連部分は読み切る。

2018年2月6日

朝TLIの中国語個人指導に行く。長雨で寒く、支度に時間がかかる。結局数十分遅刻していまった。一時間ばかり遠くにあるのも悪い。来週には止めるだろう。
午後は中研院の研究室に戻り、論文原稿の推敲。途中で現地受け入れ教員のLCT先生にご挨拶する。日本語で話す。
LMS先生からメール。NCUのゼミへ来て良いと言って下さる。三月かららしい。本場の中国対外関係史を学ぶ良いチャンスだ。

夜も研究室で研究。二次文献等も加える。読んでいなかったClashes of Empiresを読み始める。ポストモダンっぽいもので、やや拒否反応。

深夜に花蓮で地震。現地の被害は相当のもののようだが、台北は無事。

留学への道程1 Overview

 留学の動機については前に書いたので、これからは順を追って、留学へ向けてどのような準備を行い、どのような判断を行ったのかにつき書き進めて行きたい。

 その前提として、一言断っていおくと、私が本格的に留学を決意したのは、丁度日本の大学での修士課程を修了した頃である。それまでは語学留学や交換留学も一切したことはなかったし、一切博士課程正規留学に向けた準備を行ってはいなかった。従って、留学するまでの一年半は、文字通り七転八倒であり、とても人に勧められるものではない。もし留学したい時期までまだ時間があるのであれば、とりあえず以下の諸点はすぐに着手すべきであろう。

 

・学部段階から油断せず、高いGPAを維持しておく。

・様々なゼミや研究会に出席し、研究能力があることを示し、その分野で国際的に名が通る研究者と知り合いになっておく。

・利用できる奨学金の情報を集める。まで、留学に向けた準備を行うための資金を確保する。

TOEFL/IELTSの要件を事前にクリアしておく。米国行を考えるなら、GREのVerbal・Writing対策を入念に行っておく。総合的な英語力を高める。とりわけ、学部や修士の段階で一度留学しておくと良いと思われる。

 

 これらの行動を始めるのは、早ければ早いほど良い。上から下の順番に、逆転不可能なものとなっていることに留意されたい。例えば英語力については、最悪、直前までにクリアすれば良いし(出願準備と並行して試験を受け続けることになり、本気で心臓に悪いので、全くお勧めはしないが)、またクリアできなくても交渉によって条件を緩めてくれる場合もある(場合もあるだけなので、当然、入れなくても文句は言えない)。しかし、学部で著しく低GPAだった場合には、取り返そうにも取り返しががつかないのである。

 もっとも、GPA・英語力・推薦状・エッセイ・(GRE)・(研究計画)の総合評価で入学は決まるので、どれかが低くても別のどこかでカバーできるだけの力があれば問題はない。私は、英語力・(GRE)の低さをその他でカバーできたのだと思う。勿論、すべて良ければその方が良いに決まっているのであるが。

 

 また、以外と落とし穴なのが、留学準備のための資金である。求められる様々な試験の費用は高額であり、一発で十分な点数をパスするのは難しいので、複数回受験することになる。出願にも費用がかかり、分野にもよるが、例えば米国の10-20校ほど受験する者もおり、その場合には受験料で軽く20万円程度は吹っ飛ぶという話も聞いた。勿論、親を頼ることができるのであれば問題ないが、頼れない場合には、自力で収入を確保するか、奨学金を貯めておくかしかない。私は準備期間中には収入があったので助かったが、英語力増強と複数回の受験、その他関係費用と出費が重なり、ほとんど貯蓄することはできなかった。

 

 ということで、私の経験はむしろ反面教師とすべきものであるが、以下、私の辿った道程の全体像を簡単に記しておく。次回以降、個別の事情につき詳述する予定である。

 

2015年3月ー留学を決意。指導教員のその旨を伝え、了承を得る。

4月ーIELTS・TOEFL対策講座の受講を始める。スカイプ英会話で毎日speakingを鍛える練習を始める。

5月ーIELTS初受験。最低要件には全く届かず、英語力の無さを痛感する。

6月ーIELTS二度目。目標に届かず。

7月ーIELTS三度目。GRE初受験。目標に届かず。

8月ー受験する大学院の候補と、応募する奨学金とを簡単に纏め、指導教員に報告。TOEFL初受験、GRE二度目の受験。目標に届かず。

9月ー指導教員と相談し、第一希望・第三希望が米国の大学院、第二希望が英国の大学院となる。他にも諸々受験する予定であった。

10月ー新しく指導教員となるべき研究者を、指導教員の紹介の後に、各々メールを送り、受験につき予め相談を重ねる。その課程で、受験できない大学も判明し、不安に駆られ、あれこれと受験先を追加し始める。IELTS四・五度目。目標に届かず。この頃から課金ゲーム感覚になる。GRE三度目。目標に届かず。

11月ー指導教員(予定)へ研究計画やエッセイ等の原稿を送り、助言を受けて手直しを重ねる。IELTS六・七度目。目標に届かず。TOEFL二度目、GRE三度目。まだ足りないが、これ以上は無理だろうと切り上げる。国内のある財団の奨学金に合格、とりあえず莫大な借金を背負うことはなくなり、安堵する。

12月ー米国の大学院三校へ出願。気の休まらない年末年始であった。

2016年1月ー英国の大学院一校、スイスの大学院一校(滑り止め)へ出願。すべて落ちた場合、応募締切のないドイツの大学院へ応募する予定であった。

2月ー第二希望の英国一校、第三希望の米国一校、スイス一校に合格。第二希望は奨学金は五月に決定で、英語要件は入学直前までに満たす必要あり。第三希望はfull-fundingの奨学金付きで、英語の追加要件もないという条件であった。この二校のいずれかに絞られる。

3月ー両校を直接訪問。実際に指導教員(予定)や学生と会い、どちらを選択するか頭を悩ませた。

4月ー米国の大学院への返事の期限がこの月であった。奨学金が付き、英語試験をこれ以上受ける必要がないのは魅力だったが、両国の学風の相違や指導教員の能力・相性、大学ランキング等を勘案し、最終的に英国に決めて米国を断る。純粋に研究のみを考えた結果だったが、資金・語学が満たされていない状況でのこの決断は相当に無謀であったと今でも思う。

5月ー毎週末IELTSを受験。プレッシャーが酷く、地獄の日々であった。もう思い返したくもない。結局、IELTSの受験回数は二桁に達した。

6月ーIELTSが間に合わないだろうと新指導教員に報告し、善後策を協議していたところ、先月受験したものが要件を突破していたことが判明。同時に、大学から出るfull-fundingの奨学金に合格したことが判明。急転直下で明るい未来が訪れる。

7月ーこれまでできていなかった出国準備に追われる。研究史料のスキャンに手間取り、出国日の前三日間は不眠不休であった。

 

 繰り返すが、決して真似してはいけない。

 

留学生・為替相場・Brexit

 大上段に振りかぶったような話が続いたので、少し小話めいたものを挟もうと思う。

 

 私が留学を開始したのは昨年7月中旬(語学学校のサマースクールから参加、正規課程は9月開始)だった。これは丁度EU離脱・残留に関するレファレンダム(6月23日)の興奮冷めやらぬ頃であった。

 勿論、日本にいて出国準備をしていたと同時に、Brexitには常に注視していた。英国と欧州の政治・外交・社会に対する興味と同時に、実利的な関心もあった。為替相場の変動を注視していたのである。

 詳しくは後に記事で述べるが、私は二つの奨学金を受けることが内定していた。一つは留学先の大学が出しているfull-funding(授業料・生活費総て込み)の奨学金(ポンド)であり、もう一つは国内の奨学金財団から得た奨学金(円)であった。両者を単純合計すれば相当ゆとりのある生活を送ることができたが、当然そうはならない。大学側からすれば、ある学生の資金に十分なゆとりがあるならば、その分を削れば、もう一人別の博士学生に奨学金を支給できるわけである。もっとも、学生側も、完全にfull-fundingのものと同額では、別の奨学金の審査を突破したメリットがなくなるので、両者を合計して、一人分の授業料・生活費になるような金額に多少色をつけた程度の額となるように調整される。具体的なさじ加減は、留学生と大学事務との個別の交渉で決まる。交渉の結果、私は、授業料は大学負担(ポンド)、生活費は二年目まで国内奨学金負担(円)・それ以降は大学負担(ポンド)となり、そして国内奨学金に付いていた一定額の研究費(円)も自分で使えることとなった。

 つまり、最初の二年の生活費や、研究費に関しては、円ーポンド相場の変動が大きな意味を持つようになったわけである。

 

 Brexit前の年は、ポンドは非常に高く、確か1ポンド=180円や190円以上となることもあったはずである。英国の生活実感としては、だいたい1ポンド=100円で計算すると日本での買い物の感覚に近くなるのだが、実際は二倍程度高い。先に留学していた友人によれば、頭の中で180円をかけて計算してしまうと高過ぎて何も買えなくなってしまうので、務めて無心でスーパーマーケットに行くようにしている、とまで言っていた。しかし、Brexit前にはポンドはじわじわと下がり続け、150円後半ー160円程度になるまで至っていた。

 投票でremainが決定されれば、ポンド相場は反発し、前年の水準まで戻ることも想定された。当座に必要な分のお金については、私はぎりぎりまで相場が下がったところで両替しようと考えていた。勿論、leaveになるとは思わず、最後の最後にはremainになるだろうと思っていた。

 投票直前、議員が撃たれる事件が起こった際に、世論調査は一時remainがleaveを上回る揺り戻しが起こった。私はその時点でこれ以上ポンドが下がることはないと判断し、50万円分をポンドに替えた(本当はもっと替えようと思ったが、若干日和見したのである。しかし、そのため結果的には傷口を広げずに済んだ)。その時点では確か1ポンド=155円程度であり、自分としてはいい時期に替えたといった感覚であった。しかし、結果はご存知の通りleaveであって、開票中の数時間、ポンド相場は荒れに荒れ、最終的には確か1ポンド=130円前半くらいにまで下落した。その後、じわじわとポンドは下がり続け、秋頃には一時125円程度にまでなった。

 奨学金があるからといって、一介の留学生であり、決して裕福な生活であるわけではない。試みに計算してみると、1ポンド=155円の場合、50万円は約3,226ポンド、1ポンド=130円の場合、50万円は3,846ポンドである。差額は620ポンドで、これは大体私の現在の学生寮の一ヶ月分の家賃に相当する。相場の判断ミスで一ヶ月分の家賃をふいにしたことになり、ひどく落胆したのを覚えている。同時に、将来的にも、為替の投資には絶対に手を出さないと心に誓った。

 

 同様の考慮は、他の留学生もしていたようであった。正規進学の前に、進学予定者のFaebookのグループがあり、そこに参加していたのであるが、Brexit決定当日の日には、それを嘆き悲しむ声と同時に、「皆ニュースを見たか!学費が大幅値下だ!やった!」と喜ぶ声もあった。実際、大学院、とくに修士課程の学費は一年で約20,000ポンドと、日本とは比べ物にならないくらい高額なので、例えば1ポンド=155円⇢130円であれば、310万円⇢260万円と、50万円もの差が生まれる。前年の1ポンド180円や190円の頃と比較すれば、100万円以上の差が生じる。

 もっとも、「ポンドの価値が下がるのなら、むしろ授業料を値上げするだけでは?」という声もあったし(結局、今年度分の学費値上げはされなかったのだが)、経済的問題ではなくmulticulturalismの限界を露呈していると捉えられる面の方が大きかったので、皆が賛同していたわけではない。むしろ、敢えて学費の実質値下げを喜ぶのも、そうでも言わないとやってられるかという、やけっぱちな面もあったのだろう。この話をどう位置付けるべきか、まだ自分の中で整理し切れていないが、Brexitにまつわる留学生の一つの裏面エピソードとして記録しておきたい。

なぜ留学を決意したか

 現在の世の中では、留学は「決意」して行うほどの行為ではない。語学留学や交換留学、正規留学といった様々な留学制度の発達や、奨学金制度等の拡充もあり、即物的なやる気と時間、留学を良しとする周囲の環境さえあれば、ほぼ誰にでも留学の道は開かれいると行って過言ではない。インターネットの発達によって、留学生はいつ、どこにでもビデオ電話を無料でかけることができ、離れた家族や友人、恋人との繋がりを保つのを容易になっている。また、留学経験が将来の就職等に有利と言われることもあって、多くの若者にとって、海を渡るのに強い目的意識はもはや必要ではない。

 

 しかしながら、私にとって、留学は「決意」して行くべきものであった。それには幾つかの理由があるが、最も重要な要因は、まさに周囲の環境、とりわけ日本での学問的環境にあったと言える。

 

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 私は日本のある大学の学部・修士課程で日本の近代史を専攻していた。そこで、私は大きく次の三つの影響を受け、漠然と、海外博士課程に正規留学したいと思うようになった。

 

 第一に、私がお世話になった指導教員等は、日本史を研究する者が海外の学界等へ参入したり、世界的に活躍することに大きな意義を見出しており、私は自然に先生方の影響を受けた。グローバル化の世の中といっても、人間はまずは出身地で人を判断する。その際、例えば、外国研究をしている日本人研究者であっても、留学先では日本のことを說明しなければならないといった事態が生じる。これは研究者に限らず、実務家であるならばより求められることであろう。グローバル化にもかかわらず、ではなく、むしろそのためにこそ日本研究が求められる構造がある。また、グローバル化する世界の中で日本人が誰しも持っている有利な点は、ネイティヴとして日本語が使えるという点である。日本研究の領域で世界を相手に渡り合えば、他の領域よりも有利に事を進められる可能性が高いであろう(もっとも、この見通しは甘かったのだが)。

 これらの点から、グローバル化する学界の中でこそ、日本を研究する日本人で、英語で議論に参加できる研究者、の需要は大きいと考えた。それは、急速に門戸開放を進める日本の大学についても言える。現在の大学の公募で、講義や学生指導を行うことができる英語能力を求めるものは、日本・アジア研究であっても非常に多い。というより、ほとんどの公募でそのような条件が付いている。このようなジョブ・マーケットの変化に対応するためには、留学は必須であった。

 

 第二に、第一の点と関連して、海外の日本・東アジア史研究者の、視野が広くイマジネーションに富んだ英語の著作・論文等に修士の段階から触れるようにしていたため、次第に彼らのようなものを書きたいという意欲が強くなったことがある。一般に、日本を含む東アジア出身の研究者は、実証パズルを精密に解くことには優れているが、それを大きな枠組みの議論にまで昇華できる者は少ない。その結果、色々と興味深い細かな研究成果は蓄積されているのに、說明枠組みは未だに例えば五十年前の大学者が唱えたもの(その大学者も当時の欧米の大学者の議論に基づいている)に依拠する、といったことが起こっている。両者の文脈の不連続を繋げ、精密な実証を通じて新たな說明枠組みを提示することまで挑戦したい。そのためには、実は、修士まで日本の大学で学び、博士から英国や米国の博士課程に進む、というのは、理想的な道筋の一つであるだろう。

 

 第三に、指導教員や他の先生方の海外史料調査に参加する機会があり、そこで現地の研究協力者の先生や学生と話すことで、留学のイメージを膨らませることができたことがある。海外の史料館の日本とのシステムの違いは印象的であり、便利な面もあれば不便な面もあった。また、日本研究をする海外の学生たちは、皆留学経験があり流暢に日本語を話しながらも、その着眼点は明らかに通常の日本人学生とは異なり、しかも正鵠を突いていると思われる部分もあって、大変に啓発された。丸山真男は、他国との比較なしに日本を真に理解することはできないとして、外国語を学ぶ効能を唱えたことがあったと聞く。他国の学界のみならず、若いうちに他国の歴史・文化・言語の中に浸り、その環境を体感する中で自身の経験を再構築する作業が不可欠なのではないか、と思うようになった。

 

ーーー

 以上の積極的な理由にもかかわらず、留学を決めるまでには、主に次の二つの困難があった。「決意」しなければならなかった所以である。

 

 第一に、指導教員や他の先生方・友人等の理解と助言、強い支援にもかかわらず、日本や東アジアの歴史学を研究する日本の学界の通常の感覚としては、私のような進路選択については懐疑的な目を向ける方が多かった。

 従来のキャリアパスとしては、日本の有名大学で博士号を取得した後、三十代くらいになってから在学研究で一・二年海外に滞在する、というのが通常であった。日本の有名大学で博士号を取得し、そこからテニュアとしての就職を果たす、というのが何よりも大事であり、その後にやっと留学できることになる。

 勿論、現在でも公募は有名大学の威光と人脈で決まる部分は大きいので、キャリアデザインの安全性を考えると、在外研究で良いのではと思ったこともあった。しかし、色々な研究者の話を聞いた上での私の所感としては、在外研究で得られる物はそう多くない。在外研究と称して実際は遊んでいるような研究者の話は今でも良く耳にしたし、「箔をつけるため」と公言するような研究者もいるし、またとくに日本・東アジア研究者では、欧米の学界とは分かり合えないことが分かったと言って戻ってくる人もいる。要するに、既にテニュアのポストを獲得し、日本でそれなりに地場を築いた方からすれば、欧米で真剣に知的格闘をするモチベーションが上がらないのである。勿論、中には本当に真剣に格闘する人もいるし、そのような方を何人か存じ上げてもいる。しかし彼らのような積極的な研究者から聞くのは、むしろ「もっと若いうちに留学しておけば良かった」という言葉であった。ならば、若いうちに正規留学してしまった方が、欧米の学界のコミュニティに食い込みつつ、正面から存分に格闘できるだろう。

 

 第二に、第一の点と関連して、日本・東アジア研究(とくに日本研究)では、日本人が日本語で書いた研究の方が、海外の研究者が英語で書いたものよりも優れているに決まっている、という暗黙の前提があったように思う。というより、若い世代であっても、そもそも英語の著書や論文をほぼ読まないし、読みこなす英語力・外国語力もないことがある。

 これについては、一定程度理解できる部分もある。思わず「何だこれ」と放り投げたくなるような欧米その他の外国人による日本・東アジア研究は多いし、彼らよりも日本人研究者の方が個別の事例を良く熟知している傾向は強い。そして、日本の歴史学が伝統的にいわゆる史料実証主義(これに対する批判も擁護も山積しているが)であるならば、細かく深い研究こそ優れていると考えがちであり、従って我々の方が優れている、となりがちである。しかしながら、そもそも欧米の歴史学は、史料を重視するものの、日本的な意味での史料実証主義ではないので、ゲームのルールから相違しているのである。ただ、日本に滞在する外国人日本研究者(枠組み重視)と、日本人日本研究者(個別のファクト重視)の間では、前者が後者を枠組みの精密化のために取り入れるという構図が起こりがちであり、そのため後者が前者を「教える」感覚になりがちである。

 しかし、この構造を理解することと、それがそのまま続けば良いと考えることは別である。言語の壁による不適切なグルーピングと不健康な共生関係とが成立していたということに過ぎないし、急速に言語学習が容易になりつつある現在・将来において、これらが成立し続ける保証もない。何より、海外の著作や論文、ひいては史料まで即時に閲覧できる今の世の中において、上で述べたような知的不誠実を野放しにすることは適当でないであろう。日本と海外のゲームのルールの互いに理解した上で、積極的に両者間の健康で生産的な交流を図る以外に、日本の学界が生き残る道はないと考える。

 

 

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 もっとも、「決意」して来たといっても、もう母国に帰らない、といった強い意味では毛頭ない。日本語での論文も何本か出しているし、母国に貢献したいという意思もある。しかし、私のような意図と形式で留学をした者が少ない、というか自分自身以外知らない状況である以上、帰国後にはそれなりの困難が待ち受けているかもしれない。その意味では、広く将来をかけた上で選択したものであって、今後いわれない批判や嫌味等があっても、自身の過去の選択をかけて立ち向かわなければならない性質のものである。「決意」して来たと言う理由である。

 

 もっとも、いかに主観的に強く「決意」したところで、実際に留学できるとは限らない。本当のことを言えば、「決意」に至るまでの時間やコストよりも、留学への準備や手続きにかかったそれらの方が、圧倒的に大きく、骨の折れるものであった。次回以降、留学準備等に関する自身の経験を述べて行くこととしたい。

バッターボックスに立て

 学部生の頃に、ある歴史家の先生のゼミに出席したことがある。あの頃の私は、端的に言えば自意識の葛藤に囚われており、その結果他人に対しては怖いもの知らずで、どんな碩学にも自信満々に生煮えの持論をぶつけていた。今となっては本当に恥ずかしいことだが、そんなことをしていているうちになぜか気に入られ、「◯◯君はどう思う?」と、一度のゼミのうちに何度も尋ねられるようになった。

 

 そのゼミは毎回皆で本を一冊読み切り、その感想・批判を1・2枚の紙に書いて各自持参した上で議論する、という形式であった。従って、議論の内容は当然、著者の主張や本の構成、その地域・時代の歴史理解等が主となる。しかし先生は、しばしば議論の文脈を無視して、現代や世界全体に関する質問を学生たちに投げかけた。とくに私に対しては頻繁であった。日本の帝国主義外交がテーマの際に、突然現代日本のエネルギー外交に関する意見を尋ねられたことは良く覚えている。だが当時は、なぜ先生が私に対してそのようなことを求めたのか理解できず、却って軽くあしらわれているのではと不満に思うこともあった。

 

 先生が書かれたある本の中に、その意図するところを見つけたのは、しばらく経ってからである。留学中のため手元にないが、その文中では、歴史的知識を土台とした上で、学生に様々な問題を当事者として考えさせる意識を涵養するために、敢えてそのようなことを尋ねている、という趣旨が書かれていたように記憶している。それを、過去に先生自身が他人から評された言葉を元に、「バッターボックスに立て」との一言に凝縮させていた。

 

 人は突然ホームランバッターやヒットメイカーになれるわけではない。恥を書いたり失敗したりしながらも、逃げずにバッターボックスに立ち続け、自分なりに来た球を打ち返していなければ、なれる者にもなれはしない。一般的な学生に対してはそのような意味であろう。そしてとりわけ、研究者の卵タイプの学生に対しては、研究対象の歴史的時空に逃避してもいかず、絶えず現代・将来への展望の下に過去を問い直さなければならない、ということでもあろう。そう言えば、その先生の先生に当たる歴史家が、「現代的関心を持たない学者は学者ではない」とまで表現していたことを思い出した。

 

 イギリスに来て、もう半年以上経った。その間は、目前のことや研究計画等にてんてこまいで、バッターボックスに立てていなかったように思う。しかし、そもそもは打者として一回り成長するために、遥かこの地に辿り着いたはずである。そろそろネクストバッターズサークルから出る時なのかもしれない。私の打席の記録として、このブログを始める所以である。

 

 と、ここまでなかなか威勢の良いことを述べたが、基本的にはこのブログでは、なぜ日本・東アジア史専攻の研究者の卵である筆者が留学を決意したか、そのためにどのような準備をしたかといった話を振り返りつつ、現在進行系の日常的話題や政治・社会問題について気の赴くままに書くといったものである。従って、筆者の自意識の垂れ流しではなく、これから留学や研究を目指す人々や、現在の若手研究者が考えていることに興味を持つ方々へ向けて、できるだけ率直に明晰に書いていくつもりである。

 

 気楽に読んで、適宜コメント等を頂ければ嬉しいです。